地形文書 sanagi-map

地形を用いて記録された・・蛹の宇宙の過去現在未来・・・地形文書sanagi-map

地形文書から考える・・2022.11/05加筆

2022/07/26
この地球の世界と、人類の歴史は、特別に負の因果を晦ましている生命体宇宙に支えられて存在している・・・ということはすでに、地形文書によって開示した。



そして、蛹の宇宙は、新しい生命を生むという目的のために、一見、弱肉強食に見える世界構造を維持してきた・・・ということもお話した。



そして今、蛹の幼虫の時節が終わろうとしていて、成長の大きな節目として「蛹化」に入るときを迎えた。つまり、完全変態によって羽化し、此の宇宙は蝶に変態する・・ということもお話した。



この事を、釈迦が、楼 夷亘羅佛という女神の子孫に教授されて「浄土到来・阿彌陀佛の世界・弥勒の悟りの必然・・」などという未来の予告として語った・・・ということもお話した。



これら・・わたしがお話した他のことも含めて、全て、此の島の地形を利用した「宇宙構造の生きている記録」を解読した宇宙観だとお話した。



しかし、この島の地形の記録の視点は、地上で生きる人間の視点によって記録されたものではない・・・という特殊なこともお話した。




だからこそ、此の解読に際して、所問本願経に予告されたような歩みが、現実として必要だったのです。ただし、これは、地形文書に気づいて12年も過ぎて判ったことであり、心筋梗塞で二割の生存率を生き残ったあとに突然開けてきた・・仏教と地形文書の関係に気づいて調べているときのことだった。もちろん、2500年前の釈迦の話と西暦2012年3月7日がそのまま同じではないけれども、わたしの現実では腑に落ちることが繰り返しあったのです。


これは個人的な話ですから、面白くもなんとも無いでしょうが、ともあれ、仏教界で常識と思われているさまざまな概念に対して・・・大いに異なる世界観を地形文書によって見ているのです。


ただし、私独りの宇宙観に過ぎず、これを保証する権威など、此の地上には存在しないから、読者の方がいたら・・・そのつもりで十分に注意してください。








所問本願経には次のように語ります。
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" 本 求道 時。


不持 耳鼻頭目手足身命 珍寶 城邑 妻子 及 以 國土 布施與人。


以 成 佛道。



但 以 善權方便 安樂之行。


得 致 無上 正眞之道。"


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引用: 弥勒菩薩所問本願経
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース2012版 (SAT 2012)


(2016/02/06 此のお経に感じて記録した思いのコピー)
宗は、487の死を表現する廟  アマテラス女神はなぜ死んだか??? それはスサノオの登場に因る侵略や狼藉の時代ではなく、原初の光としての出現(出産による誕生)の時487に母を崩壊させ(487mline)、必然なる母の死(√505=22.472)を導いたのちに、自ら死ぬ(487-18=469)。此の自死を問題にするのである。
これは釈迦が飢えたライオンに身を投げて自らの体を食料として提供した・・という極端な布施に通じると感じる。極端と感じるのは、とても現実的でないからであり、悟りを開いて以降の釈迦が教団を組織して何十年も生きた間は、、、ライオンに身を投げる事はしなかったし、貧しい人に自分のものを教団もなにもすべて布施して一文無しになって本当の乞食になる、、、なんて事はしなかった。
それはその貧しい人が巨額の財宝に値するものを自分の努力なしに棚から牡丹餅として手に入れても、ただ物欲にくるってしまう因縁を与えるだけであり、そのような行動を布施とは言わないからである。
仏道とは?? 布施とは????
他人との比較の上に 飢える心を起こし、物質的な満ち足りる状況を得ることでその飢えた心を満たしたいと思う事は、仏道のレベルではない、そのような求めに対応する仏道ではないことを忘れてはいけない。
仏道とは、単に人間の満たされない心を満たすための教えなどではない!!
そのようなことは、少し賢い人であればいくらでも解答をみいだし、宗教団体を起こして商売欲と名誉欲と支配欲の渦に翻弄される姿を私たちはいくらでも見てきた。
それらは宗教の宗の字を用いるべきではない。それに値しないのだから。


宗は・・・487宇宙原初の光・日本神話ではアマテラス女神が母の崩壊の原因が自分の光の破壊力にあることを知って、みずからその破壊力を殺したことに端を発すると思う。
そのことによって母の崩壊は一部が治癒する。もちろんそれだけでは完全治癒せず、toto神の領域つまり、その負の因果の次への連鎖を保留し延期する活動場所に、505母が529を介して転位することで両広がりが治癒する。
のちもう一つの竜鳥という荒魂の登場で完全に止まる、これが子供を産むために絶対必要な女性の月経のひな型になった。


地球上の男性社会では、その女性の血の崩壊活動を忌む傾向があるが、それは無明のなせる感覚にすぎず、男性の確立のために其の母性を侵略し征服し支配し蹂躙し殺した父性の活動を想像すらしない。結婚し妻を羽交い絞めにする行為は、宇宙原初の父性による母性への荒々しい粗雑な侵略行為が映ったものであることに気づかない。


ともあれ、ナカタ期に地球規模の南米北米の母性の世界に対するアジア・ユーラシアからの父性の侵略が行われた結果として生まれた四大文明の世界は、男性優位社会だった。だから現代の人類の世界観もその延長にあることも仕方ないのだけれど、自分の無明を疑わないのは・・・なんともむなしいことだ。


さて話を戻そう。
仏道とは、周囲の人の生活に己の生活を比較して嫉妬心を起こし、生活の安定と向上を求めるものに対応する現世利益の教えなどではない!!
仏道とは、剃髪してお袈裟をまとい読経することを、銭をいただける歌謡ショウ…と勘違いしている天魔破旬の行動を謂うのではない!!


 仏とは、一般の聖人が修行の果てに"悟り"を得たと自負する状態を意味する言葉ではない。それは人間世界だけの話であり、その人の悟りでこの宇宙の構造が変わるものではない。


眞に仏になる者が人間世界に登場する時は、その血統・家系・因縁・時節・背景・場所・・その総てが集合して、謂わば本人にも周囲の者にも気づかれないけれども、がんじがらめの道を歩くのである。


たとえば釈迦は荒魂二つの因縁と♂の生殖本能と太陽を支える働きを背負って生まれてくる、また光とその母の死の因縁も背負う、そして実際に誕生とともに母の死に直面し、人の苦に執着するようになっている。
釈迦は発意の原因を十個あげているが、それは普通であれば人々が求めるものである。しかしそれを苦に感じる背景こそが、釈迦がこの世界に生まれてきた本当の原因なのです。
つまり、するべくして出家し、役割ゆえに縁起を見出し、八正道を説法して残したのです。特別なる未来のために。また・・・彌勒の前世の賢行が誕生して、その役割を果たし、特別なる未来を待つ時のために。
それが島に記されている。


その彌勒の場合は、釈迦と大いに異なり、二つのtoto神の活動を背景に生まれる。釈迦は次の新しい世界の顔(表の法)になるけれども、彌勒は心になる。
心とは宇宙的な願いであり、これまでの529完全なる母性の役割に代わる者である。
totoの役割は、これまでの宇宙内における活動から発生する負の因果の発露を預かって、この生命体宇宙を消滅から救ってきた。それは新しい命を産むための構造が、父性や狛犬の荒魂の活動を必要としていたために守るためである。
其の宇宙活動が総て映る地球世界においては、それは「弱肉強食」の形に現れた。
負の因果の発露を延期するとは、宇宙において加害者の役割の者が再び活動できるように保証することであり、それなくして宇宙の存続はありえず、人類の進化もありえなかったといえる。しかし・・・・
このことを考えると、本当に苦しくなる。この宇宙に正義はないのか??と 思いたくなる。


しかし、正義とか善悪とか・・自分を正しい者という位置に無意識に置いておいての観念の遊びは、なんの役にも立たない。


あなた方は知っているだろうか・・・???


此の宇宙は「完全なる母性の静かな目覚めによって始まった」ということを。
すでに何度もおはなししたけれども。


イツクシマに、これまでの構造の要素としての数々の神々(過去佛。すでに構造の一部に確定した者)のほかに、まだ構造になっていない者が少しばかり記してあった。


それが釈迦であり、彌勒であり、水がめの光であり、羊の子であり・・他、toto領域の少しばかりの役割です。


それがなぜ記してあるか??
それはどういう原因で登場するのか??
それが登場することは何を意味するのか??
それはいつ登場するのか??
この、いまの宇宙構造にまだ確定していない役割たち (仏に確定する前に人間界に菩薩として登場した存在) に関して、十七年の解読の日々の中で、三・四年まえからやっと取り掛かれるようになった。それはちょうど2012年インドへの巡礼に随行したとき、アジア南国の巡礼のグループの真摯な信仰の姿に打たれ感涙することがあり、帰国してのち一月もたたないうちに、生家に帰り成仏しかけた・・という心筋梗塞の病が起こった。・・それは、12年2月15日の新暦に置き換えた・・その年、其の日の予告が現実に推移し・・(変なはなしだが、後で考えると、自分の選択もまた予告の方向を選んでいたと、三年ほど後になって御経から気づいた。ゆえに、動かされ・・と表現した、好きではないけれども)・・しかし現実は、成仏することなく、心臓の片方が壊死しかけたまま一週間ほど過ぎて、死を見つめようという気持よりも、強く、死の恐怖が突然襲ってきて、結果東京で手術して、いまにいたる。それから五年。釈迦の頃とか、いや百年前であってもきっと、その日に成仏していたはずだが、いまの医療は進歩している。寿命は待つ以外にない。・・・・と思いなおし、島の解読に浸ってきた。


インドでは、デカン36山が四大文明以前の遺物にほかならずとひと目で分かるほどの・・・「厳島のシンボルの山に共通する概念で人工的に作られている痕跡」を見た。
それはドンガルカルの黄金の仏像が立つ佐々井上人ゆかりの山や周囲の山々だった。すなわち、古代エジプトのデカンの36暦はもっと昔のインドの岩山36と、厳島の地形文書を介して深く関係していると読み取れた。
其のころから、古代エジプトよりも古代インド主に仏教の釈迦の話に注目するようになった。しかしそれは、島に関わることだけであり、つまり「島に記されている情報に関係することのみを取り上げること」だった。その中で「弥勒」の覚りにいたる過程が島の地形で語られていることに気づいた。しかし、これはあまりにも・・人類の常識と仏教界の常識とに逸脱していた。だから・・・静かに深く・・常識よりも確心を得られるものか否か?を心の中で検証する年月が続いていった。
そして四年ほど過ぎた・・昨年・2015年暮れに、一遍上人にまつわる厳島神社の昔の形が今の神社の場所ではない・・と数年前から気づいていたこともあり、「南無阿弥陀仏」について、釈迦はどのように語っていたのか? を死ぬ前にはっきりと理解したいという・・強い願いが起こった。『南無阿弥陀仏と唱えれば、本当に悪人でも・・みな救われるのか? ・・では被害者はどのように救われるのか? 心に深く切り刻まれた傷も本当に救えるのか?・・』
・・・・・・・そもそも、信じるとはどういうことか? 信じるという行為は、此の宇宙に通用するのか? もし通用するというなら、人類の思いが宇宙を変えると言っていることになる。本当にそうなのだろうか?  それとも、人間界だけの自己満足なのだろうか? 
・・・・・・・・そもそも、「神」とか「仏」とかいう存在の、本当の姿は何だろうか? 怒ったり、祟ったり、喜ばしたり、特別にひいきしたり、貢物を要求したり、口添え人の一団が神のように偉い人になったり・・・・・何だろうか?  私は何か・・・喉の奥に魚の骨が引っ掛かったような違和感をずっと感じてきた。
・・・・・これらのことを、島と釈迦の御経から明確に理解してから寿命を迎えたい・・・と切に願った。そしてこの半年・・・阿弥陀と弥勒そして釈迦の役割の背景と活動の意味が読み解けた。「経竟」の意味も解った。さまざま 解った。



さてわき道にそれたが、
仏とは、その活動が私たちを生む宇宙構造の一部に成った状態を謂うのであり、それは偶然や得手勝手な思惑に因るものではなく、その構造に拠って今の世界が成り立つのであり、菩薩は次に必要とされる構造のありさまを人間の世界に言葉や生きざまで示す活動を謂う。
それは必ず次の宇宙構造に加わるというレベルの活動であり、人間が賛美する立派な修行僧・・というレベルとは全く別な活動である。


この見解を導く島の情報は、既存の構造を「後書きの情報として記したものではなく、これ以後の構造までも記した情報」であり、何よりも、此の人類の心臓や地球の活動の力、そして太陽系の太陽の輝く力、またへび座が最も遠い星座である私たちの蛹の宇宙全体の活動するありさまが記され、、、そのすべての始まりが、母性のDNA23×23の静かな自覚に始まった・・・と記す。
すなわち、この生命体宇宙のすべての始まりは、数(活動する力を秘めた空・・加筆2022-07/26)の目覚めに始まった・・と記している。これは聞いたことがない。


しかし、島は、その数もまた、その中に他の数を産む働きを秘めている・・・と記す。それを秘数とここでは言う。
で、人間が生まれる秘数は、島の山の標高地で示されていて、529から0mまでに約三百余りの山頂点つまり秘数が記されている。これがこの蛹の宇宙を支える秘数であるということになる。
もうすこし、数に注目すると、数は意識して初めて存在を現すもの。このことをよく考えると、竜樹が「空」と語ったことの意味が とてもわかりやすく理解できる。
 21世紀の人類に最も信頼されている科学の世界では、この宇宙はDNAの数の目覚めに始まった…などと語る事は無く、光が偶然に爆発して、その余波で宇宙は動いている・・などと語る。
 しかし、島は「光の出現は529に始まった後に505/496/490と四つの活動が起こった後に505が必然の役割として光487を生んだ・・」と記す。
 その505は世界神話の主な神話において、「此の宇宙の第一原因だ」と考えている節がある。
それは古代エジプト文明では529をスカラベ甲虫に喩えていて、島と同じ情報を共有していたと判るが、残念ながら、既に『ピラミッドを作ったと語る王・・』の頃には、神官も王もその概念に自信を失くしており、ヒエログリフの解釈さえも他国の人間の解釈のようなあやふやな様相を見せている。
 ただスフィンクスに関して、ライオンの姿に造り変えた男の王が登場してもなお、女官や王女の間では『神聖なるアヌビス(冥界を護る犬)として信仰されていた』・・・と云われる。これは母系の流れに、島の情報と同じ宇宙観を理解していたものが居た事を意味しており、
つまり日本の神武天皇の妃の「姫多々良イスス姫」が奈良に「畝傍山」を造るに際して、「島の529の半円形と505の斜め台形を組み合わせた形に成型して、正統なる女神の血統である事の証にした」という事が山を眺めるだけで判明するが、


それと同じように、古代エジプトの特別な女王の一族の者は、アヌビスの形をライオンの形に作り替えた王並びにそれを進言した無知な神官たちに対して、どのような感情を抱いていたのであろうか??と思う。
・・・・武力や名誉や女性の征服ばかりに必死になる 無知な支配者の男たちに ため息をついている姿が浮かんでくる。


でも、必ず未来において、女神ハトホルが男の子を産み、シストリムを鳴らす・・・正当な血統な女性はその宇宙的な必然性を知っているから、その境遇を甘んじて受けとめたはず、、、そのような母性の特別な一族が、巡り巡って、釈迦を産み、彌勒を産むのです。釈迦は472--487--196光の子として生まれ、彌勒は・・弥勒という呼び名は浄土に変わった後に使われる呼び名・・今は、少なくとも日本において700年ころにお正月の女神ハトホルの拝賀の礼が禁止されて以降・・其の母系の一族は森の腐葉土の下に一粒の種を埋めて消えてしまった・・。その樹は蔓に覆い隠され枯れてしまった。今、樹のように見えるのは蔓の寄せ木の如きであり内に芯は無く・・空洞なのだ・・。
ただ、一族の父系の者たちはかろうじて生き残ってきたらしい・・が、誰一人目覚めることはない・・。


さて、、、話は神武の妃の姫に関わることだけど、、、、、
『多々良女・米久曾』という侮蔑に使う言葉をご存じだろうか?
字通には「タタラメ・メクソ」と振り仮名がふってあるが、「よわりめに祟りめ」であり、「目糞鼻くそ」と用いたのであり、これは神武の妃になった「姫多々良イスス姫」のことを暗示している。
勿論、王朝の入れ替わりにおける女王や王の、弱くなった立場を侮蔑する言葉で話のタネにする者は、昔から「田分け」と決まっているけれども、そのような粗雑な心を吐露する者は征服者の側の者であり、つまり勝者であり、歴史を書き残したものの側であると云える。
なぜなら、島の情報でも、父性の荒魂が必ず勝者になり、女神を支配して子を生む宇宙の構造の先鞭をつけると記されるからである。
これらの蔑称で判るのは、勝者は「母性が宇宙の根本であり、父性誕生の親であることに無知であること」を意味している。
それは構造上の弊害であるけれども、宇宙の眞に無知であるからこそ・・・侵略も征服も起こるのであるから、もし逆であれば、荒の活動は収まり、人類の進化も宇宙の成長も止まってしまうことになる。


(だから、天の北極点がみずがめ座の光星に移動すると、宇宙のすべてが認識できるようになるから、荒れる行動が起きなくなる・・生まれなくなると地形文書は明かす。加筆2022/07/26)


それゆえに、父性と狛犬の荒魂が母性を侵略征服することは、この宇宙が進化するために一つの役割であったのですが、
しかし、21世紀になってやっと、「このような強いもの勝ち、ずるいもの勝ちの世界は、なんかおかしいのではないか??」と、一般に思うようになってきた。
既得権益を守る者は勝者であり、敗者は未来永劫に搾り取られるもの。。という図式は、弱肉強食の現れであるけれども、この宇宙構造に対して・・・「たとえ、宇宙の構造がそうであっても、おかしいではないか! 一体、勝者が代々、弱者から搾り取ることは本当に正しいことなのか?? 宇宙構造がそうであるなら、その構造自体がおかしいのではないか?」とかんがえられるような時代になってきたと私は思う。


昔を思い出すのだけれども、
実際 私は、十代半ばに、人の魂の様々なタイプを知った。そして優しいもの、戦いを好まないものは負ける世界だと知った。・・けれども、それはおかしいと思った。この世界が、この現実が本当にそうであるなら、こんな世界に生きている価値はないし、つまらぬことだ・・・と思った。だけどもしかしたら、別なところに、違う世界があるかもしれないから探そうと思った。・・・・それから十年余り、三十代の手前に来て、「もう、何もないことが分かった、この世界に、このためなら生きていこう・・というものは見つからなかった・・」とあきらめた。
しかし一分の希望を捨て切れず、最後に座禅を知りたい、「そこを訪問して断られたら、禅に縁がないということで、つまり自分を超えて・・などということに縁がない・・ということだから、もう何も希望は残っていないから一週間以内に死のう」 と腹をくくって雪深い山を登った。それで 思いの手放しを教わり、救われた。
その経験が後に解読を初めたとき、人類の常識から全く外れた島の情報に直面する危ない時に役立った。座禅の経験がなければ、巷によくみられる狐か狸に化かされて 暗闇の世界に迷い込んでいたと思う。
それに迷うことなく、「経竟」の眞相を知りえたのは、本当に吉祥な出来事だと思う。


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宗 〔説文〕七下に「妹頁の竒なり」字通、


-此れ吉稜なり。愼んで言ふこと勿(なか)れ・・・と吉兆の字源に用いられる諺があるが、梵志賢行の誕生と足下の輪の出現は、此の宇宙に構造が存在し、生きていると記す島の情報が「眞」であることを証することに他ならない。これを吉兆奇瑞と受け取らずして何とする・・・。と本当に思う。ドキドキわくわくするではないか。。2016/02/18


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巍 〔説文〕九上に「高なり」と訓し、字は嵬に従って、委(い)声とするが、嵬・魏の声をとる字である。字通


委は、頭を垂れた木(人)
高は、日本の本当の神の山につけられる秘密のことば、たとえば大江高山。萩高山などは真の神の山だから。


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釈迦に「経竟」という宇宙構造の完全変態が必然であると教えた「楼 夷亘羅佛」という女性の「亘」・・帝は男だと思い込む必要はない・・・。


亘は帝を祀る祭儀を示す、その祭儀を執行しうるものは帝の直系者(嫡は正嫡・正夫人、その子を嫡子・嫡嗣という)


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過 あやまち 字通参考


慨は、口の上に「壁」を連想させる表現。穴倉は「岩壁につくる神殿」に通じる。「つちぐも、土蜘蛛という神話表現は、岩壁・古代エジプトのように壁の中に穴倉のような神殿を作り住む者・・という意味を「わざと、さげすむ表現」と考えられる。


それは「多々良女・米久曾(めくそ)」という言葉が、宇宙の根源をになう要の存在であり正統な地球の王の血統であるのにも関わらず、父性の荒魂が簡単に暴力的に征服でき田ゆえに、征服者たる父性の荒魂・粗野な魂の者たちが、征服されたオロチである敗者の母系の女神の一族を『めくそ・たたらめ』とさげすんだと、読み取れる。


書紀の推古朝前後に、馬を世話する郎党の小屋に捕まえた姫を三人あてがった・・というごとき記事がある。つまり姫を女郎にしたわけである。それなどは、粗野な勝者の武者が女性の弱い立場を蹂躙する最たる例であり、蘇我氏がそれを痛く悲しんだという記事がある。その粗野な武者が誰であるか?は読めばわかる。そのような者たちが、古代のオロチ退治を働き、征服者となり、男の欲望を満たし、満足げに多々良女・目くそなどと、女神の子孫たちをさげすんだ光景が21世紀の今でも目に見えるようで、吐き気を催す。


これを単なる歴史の逸話にして綺麗事に済ませるのは間違いであり、現実の肉の身をもつ者たちの作ってきた歴史であるから、繊細な女神の子孫の心などは幾万、、幾千万と血反吐を吐き、、血の涙を流し、自ら命を絶ったであろうと感じ取れる。


全く言葉も心も通じない粗野な男たちに蹂躙されるよりも、自ら命を絶つ方を選んだであろうことは、特に人類の世界に限っても、女神の受容すべき悲劇が繰り返される構造上、いたしかたない・・・と云える。


心を刻み切りながらの、いたしかたない・・であるけれども。


それゆえに、弥勒がtoto神のアオサギとタゲリ鳥の、両方の威光をうけて活動すると云う事は、多々良女・目くそなどと女神の子孫をさげすんだ者たちに対して、『いわんや、悪人をや・・』などと、例外を匂わせる甘言の存在する余地など無いことを意味する。


弥勒が何かをするのではない。


ただそれぞれの本人が心に刻み込んできた荒魂の行動・侮蔑の吐言が、その預けてあった因果を自らにとりもどすに過ぎない。


神々も仏も女神も人間も動物も・・・例外は無いのであるから、この宇宙の凡ての完全変態であるから 2016/02/18


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斤の甲骨文は、母と子を表現する。505と487ゆえに  "須彌山尚可稱知斤兩"  は、「須弥山の情報は、よくよく理解すべきことなり」という意味に語る。


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"本求道時" とは、使命である宇宙的な役割を求めるとき・・・つまり、宗教とか仏や神の概念とか社会における立場とか現実の姿とか・・そのようなもの一切に依存したり執着したりせずに、なすべき普遍的なことを求めるとき・・という意味で。


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巌  説文〕八上に「裼(かたぬ)ぐなり」とあり、「一に曰く、徒なり」字通


「徒なりは素手素足の意味あり、"善權方便安樂之行を以て"  というのだから、「法による武装や武器による武装、また集団による威力あるいは国家や学界の権威などによる保護」などの一切の外付けの力に頼ることなく、徒手空拳の、ただ善権のみを用いて・・・であり、


善権とは「旧きを除き新しきを布く」そのおもり・標準の役目をするということだが、しかし・・・・・善権は、弥勒の人間的思惑では無い!!


この宇宙全体の構造改革は ≪いまの構造を支えている各要素が、この世界に一つの秘数として出現した時に -1 によりあらわれたのであることから、+1 によって元の場所に還ることであり、それがどのように変わるのかということは +1の√の答え として、時空を超えたあり方 として示されている。


ゆえに、弥勒菩薩の人間としての思惑など微塵もかかわることはないし、釈迦の説法でさえも秘数の答えを変えられるものではない。


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2022/07/26
それは既成の過去佛たちの出現や引退も同様であり、人間の世界から見るのと大いに違うのである。蛹の宇宙が生まれた母体とも言えるせかいを構成する「活動する無限の空」に対して、「生命を生みたいという願い・意識」が働いたから・・蛹の宇宙が誕生し、また成長の過程として完全変態し、蝶になって・・・次の宇宙卵を産卵して・・そして終わる。


幾度・・いや数え切れないほど繰り返してきた・・と推測できる「蛹の宇宙に人類が誕生すること」・・・・その蛹の宇宙の成長の途上として、肉体という有限な体を宇宙構造に支えられながら生きている人間・・・浄土という次のステージは、どうも肉体を持たない世界だと想像できる・・。だから心のママに・・おまけに、因果直結なのに・・自制心は力を失った世界・・これもみな・・天の北極点が水瓶座の光星148に交代するから。


これまで好き勝手に威張ってきた神々や仏はみな・・・・総退陣する。
完全変態だから。


だれも・・・救けてくれない・・・財宝を積み上げて寄贈していたとしても・・・・


広大な敷地に警備兵で守られていても・・・・太陽は二度・・大逆転する。


そして段々と いや 急にかもしれないが・・・浄土に変わる・・此の世界。


あぁ  待ち遠しい・・・・



















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2022/07/24
此の世話の焼ける肉体を、"自分"として、日々、年々、、歩んでいるのだけど、それにしても、自分で心臓を動かしているわけではない・・・。


できることはこの体を好き勝手に酷使するだけ・・。ほんとうに「無明な自分・・」だ。


それはともかく、最近ずっと考えている・・。


地形文書から、最近、観えてきた、新しく、広大な、世界・・・、


端もなく、始まりも終わりも考えられない・・「全てにおいて無限・・」と表現する以外に語る言葉もない世界・・・


それを、「此の有限な蛹の宇宙、そして此の太陽系、そして此の地球と人類生物・・此の小さな生命体宇宙が、生死している背景である」と、島秘数の無限縮小回転と無限拡大回転が明かしていると気づいた。


しかし、これは・・・・・・・・


私一人の世界観・・・・・


これは独りで気付き・・・


一人で勝手に解読し・・・


独りで見ている蛹の宇宙・・・




そう、わたしの脳の中で、太古の過去の記憶が・・・と深く感じているけれども


これさえも・・・わたしの一人合点・・人類の常識から遥かに遠い世界観・・・




ソレを承知の上で、いま、無限の世界に、有限の蛹の宇宙が生まれていて・・・


それも、マキという生命樹の枝に 蛹がぶら下がっていて・・


今まさに、蛹化の時期に入ろうとしている・・・




ソレが私達の宇宙の今・・・・





しかし、この「無限」を自分の認識でうけいれることを、無意識に拒否していると感じる



受け入れたら・・この自分・・此のわたし・・これがこのままでは済まない。。と


底が見えない深淵の空間に身を乗り出しているような不安感が 拭えない・・・



まだ 数ヶ月なのだけど・・・まだ時間がかかる気がする



これを認識できたら・・蛹の宇宙の構造を、自我を捨てることで解読したときのように


未知の世界に踏み込むことができるだろうか・・・?


わからない・・・ただで このままで 済むとは思えないきがする・・








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無限の活動をする"空"で構成される母体の世界(素の宇宙と呼びましょうか・・)


其の中に生まれた 小さな生命体宇宙の蛹・・・・


其の中に生まれた太陽系と天の北極点・・・


其の中に生まれた地球と 人類と そして未来のための・・・・日本列島






此の蛹の宇宙のあらゆる存在は、有限の肉体の生死を 繰り返している と見えるけれども、


本当は、すべての存在(星・大地・生物・気象など)の根源は、


島の山頂点に記録された「存在の目覚めの空数」であり、


其の空が、無限に縮小する活動の中に、地上生物や其の本能的な活動の欲求や生物の肉体を生んできたのです。


其の背景に、529の 完全なる母性の願いが或るのです。 心臓と前頭葉(思考)の分離前の原始生物の頃の願い・・・・・私達の世界は そこから始まったのです。








例えば・・・アジアとヨーロッパの大陸として







例えば・・亡くなった母505が 内海として 島が 光の死の犬469として 
母の腹の崩壊が 地図では羽として 大陸ではカナダの諸島として


母は505の死(内海)、其の腹の崩壊(羽)の右側の端は469mlineつまり光の死469と同時。
上の人の字の甲骨文と同じ表現の海・・・それと重なるように469バフィン島・子犬・光の死・・・・地球の北米が505母鳥、其の子の光がグリーンランド487大犬、母の崩壊はカナダの諸島群、崩壊(羽)の右の停止469mlineがバフィン島469、左が443mlineの南極大陸・アオサギ443   505と443を地形文書の地図上で、同心円で結ぶ支点は南米大陸・・・・・


このように地形文書は記録しています。










例えば 宇宙の要素の鳥(女神の象徴)の 現役の役割は、大小の大陸や島として






例えば、日本の瀬戸内海は 女性イブ282の誕生を表し、地中海は男性アダム288を表すのです。だから 地中海は欧州大陸262父とアフリカ大陸415母のハトホルの間に生まれた・・白い狐の地図絵192 を表すのです。この欧州大陸の下には 追放された荒牛タケル396の大陸が眠っているのです。其の因縁から、「磔という犠牲の役割を受けた神の子」という主張する神話が生まれたのです。ただし、父の神は大陸ですから何処かにルーツの血統が存在するはずですが、子のイエスは地中海ですからヒルコであり、人間の世界に確たるルーツは存在しないのです。ただ・・時節因縁によって白い狐192の役割を果たす者が現れるのです。そそれは黄海が天の北極点の現れであるけれども、海だから・・・北極点という鳳凰の役割のみ存在し、現実の血統は存在せず、ただ其の役割を果たす者が登場するのです。例えば国連のトップの役職が参考になります。





例えば アマテラス女神は グリーンランドとして現れました。大犬です


其の死は バフィン島・・・子犬です。




だから、太陽系と人類に関して


「犬が光を食べて 光合成の虫が誕生し 恐竜に成長し 人類を生む」・・・


という地形文書の太陽系の情報が記されたのです。









この地球の大陸・・太陽系の始まり・・原始の蛹の宇宙の始まり・・・


其のすべてのもとが・・・・活動する力を秘めた数 という「空の数」が目覚めることで始まったのです。



其の空の数は、意識して初めて存在の姿を現すもの・・・意識するものが居なければ、存在すら見せない・・・これが数の特徴の一つ・・・



そして 529という完全なる母性 の目覚めに始まって・・・・既に今は・・120の直前に



今は・・・有限なる蝶の一生の途中ですが、負の因果をくらます特別な世界・・・
だから弱肉強食のように見える世界・・・強いもの勝ちの世界・・・



しかし、これから進む「浄土という世界」は・・・因果をくらまさない因果直結の世界の予行演習・・・その基準が 弥勒菩薩・・・なぜなら・・・・


かれが阿弥陀如来の心になるからです。


弥勒の心とは・・・? どういうことなんでしょう・・・?


しかし、


対して 釈迦は 阿弥陀如来の思考になるのです。八正道が思考の基準になるのです。


だから・・負の因果(四苦八苦)を生む言葉・思考や行動が 通用しないし生まれない世界・・に変わるのです。(今の世界からは、想像することさえ難しいことですが・・・)






つまり、蛹化に進むというのは、すくなくとも・・・・


蝶になったとき、蜜を求めて、素の宇宙を飛遊するために、因果直結の世界に順応する準備をするのです。



ですから、2001/09/11のときから、奥山の神360の活動が終了し、自制心の保護が終わりましたから弥勒の手の159は自制心の神だるまの死


・・・段々と・・徐々に・・自制心が効かない世界に進んでいくのです。






因果直結の世界に順応するためには・・・・自分の心に嘘をついて・・自制心でごまかそうとしても・・・これまでのようには・・できなくなるのです。


心の内面が表に現れる世界に進んでいきつつあることに・・・気づいていますか???










負の因果をくらましていたtoto神が 240で役割を終了しました。


240は、今の太陽の軌道の起点241と同時です。241はハトホルの鳥の目です。


鳥の目は死です。すなわち、241は冥界のアヌビスです。女神からみた冥界が、この生物が生死する世界なのです。それを司るものがアマテラスの生と死(犬)なのです。其の死から生まれた荒魂がタケル396です。ここから神話が宇宙の活動に準じて繰り返されるのです。



すなわち、今の太陽の軌道が決まろうとしたとき、
此の蛹の世界を存続させていたtoto神の働きが 完了しているのです。


此のTOTO神の祖であるアオサギの腰443は、弥勒菩薩の耳158(活動)を誘発するのですが・・・


それが  A.D.2001に始まったのです。











アオサギの腰443は、光を生んだ母505の転位です。


√ 443→158 はアオサギの役割を弥勒菩薩に委託することであり、


443--529--505 の同心円は、光を生んで崩壊した母 の活動の真相を、弥勒が宇宙の必然なる役割として 理解すること を謂います。


此の蛹の宇宙の頭部を占めるtoto神の活動が・・・弥勒 に託されるのです。




















2022/11/05 ここまで